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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考えてみましょう霊魂のことを




考えてみましょう霊魂のことを1~20~21~22




ここでは、タイトルの「考えてみましょう霊魂のことを」から離れたことをまず加筆しておきます。


心脳問題を明らかにするモデルとシステム明細の研究について、その進展状況を記しておきます。


こういった方面の研究において、
ここ数十日で、大学ノート5~6冊分位書くことがでてきて書いてきたのですが、かなり進んできています。


その仮説・理論から、「こういったことが起こるはずだ」という予想もでてくる。

それは検証課題となる。



で、そのモデルとシステム明細に基づいて、人間における、「自由意志」も今日追求してみた。

初めは、自由意志はでてこず、自動機械のような反応によるメカニズムによって決定される「自由意志」つまり「自由意志ではない意志」しかでてこなかったのであるが、ここにきて、「自由意志」のメカニズムにもたどりついた。

もちろん、人間に自由意志があるのかどうか、その問題とは別の課題として追求してのことである。


そのモデルとシステム明細(まだ不完全)からでてくるものとして、「意識の器」と「心の器(自由意志をもったもの)(あるいは自由意志をもたないもの)」があるのであるが、その追求においては、物質に関わる研究と同じ問題がでてきた。

物質に関わるその問題というのは、ある段階までいくと、そこから先は、「現実がそうあるのであって、なぜそうなるのかは解明も解説もできない」というレベルに達する、という状況を指している。

たとえば、電子はなぜマイナスの電荷をもつのか(そのマイナスはプラスでもよいが。名付け方は別問題)、なぜそんな性質を現すのか、とか、陽電子についても同じく、磁界についても同じく、原子や分子から始まって物質の組織についても同じく、そういったことがいえる、そういったレベルにおける疑問(問題・課題設定)には、哲学的に答えることしかできず、科学的な解答はない、ということをいっている。


そういった意味で、ここまでの研究によって、その段階にまで達したのではないか、と考えてみる。

(この「と考えてみる」という表現は、「いろいろ考えられるが、今はこれに着目・注目しており、それは予想や仮説のようなものであって、もちろん要検証である」、といったような意味である。
こう書くのは手間がかかりすぎるので、くふうして得た表現である)



そのやり方で、自由意志も説明できるし、心脳におけるさまざまな情報処理も解説できる。

もちろん、それが現実・実在を記述していると主張はしない。その先の検証を待つしかない。



☆☆☆




ほかにも、まるで、SFのような内容もでてきた。

そういったものはアカデミックなところには書く気がしない。



☆☆☆



☆私のいくつかの論における「コンピュータでの例え」について。


コンピュータで例える、というのは、人にわかりやすく説明するためにコンピュータで例えて解説してみる、という意味である。

心脳とコンピュータは異質なものである(それも要検証)。

ただ、概念的には、部分的にかなり似た要素がいくらかありそうだ、ということはいえる。


あるいは、心脳の研究が進まない時に、参考にしてみる、という意味合いもある。


以上、要検証の部分があります。



(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)






(加筆などもしています)



☆初めに☆
☆私の研究姿勢は、考えられることはすべて考えてみて、その中から現実どおりになっているものを探しだし確認しよう、というところにあります。
短い時間と短い文章では、それらすべてを書き尽くすことはできない。
ですので、私が書いているのは、どこをとっても、全体のほんのほんのほんの一部だということです。
つまり、私は、どこにおいても断定はしない。考えられることを挙げていくだけです。
ただし、思い込みの強い表現になっている個所はでてくるでしょう。

そのあとに、検証・確認がくるわけです。

したがって、そんな中の一部分を挙げて、否定することは、否定する本人の価値を低めることになります☆





次のようなことを考えてみます。

それは考えてみるだけであって、仮説でもなく、当然霊魂があるなどと断定もしない。

ただし、考えるために必要なので、「もし、霊魂があるとしたら」という立場に立つとします。


なぜ、ほとんどの人は、「霊魂なんてあるはずがない。霊魂はあってはならない」といったような考え方をするのだろう。
そして、独断と偏見でもって、「霊魂なんてない」と決めつける。

ほんとにほとんどの人たちが、「霊魂はあってはならない」、「霊魂があると困る」、「霊魂があってたまるか」と、かたくなに否定するだけの心がまえでいるみたいである。

実に不思議である。

そこのところの心の奥底を多くの人たちに訊いてみたいものです。

もちろん、目に見えず、手で触れず、においもしないし、味もしないし、どこにあるかわからないし、どこをさがしても見つからないし、仮りに霊魂がそういった存在なら、ない、といいたくなる気持ちはわかる。

しかし、ないと断定するには、「霊魂はない」ということを証明し検証しなくてはならない。
それなしで、「霊魂なんてない」と断定するのは、実際のところ、なんらかの底無しの恐怖を抱いているから、という要素がそこにあるからなのかもしれない。

実際、「霊魂」というと恐がる人がいる。

恐がった上で、「霊魂なんてない」とくる。

なぜ、恐がるのだろうか。

なにより、霊魂はあるかないか、という議論が成り立つというところにも、なにかありそうな予感がする。

そういったことも含めて考えてみる。


それに加えて、世界中の言語に、霊魂という言葉はあるのである。

そこにも、検証の必要性があると思える。


霊魂があるとしたらたぶん、人間のどこかに、霊魂についての記憶のようなものがついていてもよいのかもしれない。

その記憶が、人間を霊魂に対する恐怖に駆り立てる、そういうことも考えられる。


で、なぜ、恐怖をもつのか。

懐かしさをもってもいいはず。

しかし、多くのばあいそうはならない。

それはなぜであるか考えてみる。

人間を離れた霊魂の存在する世界が、あまりに広大で、大宇宙のような未知の要素を多くもっており、恐怖にもたくさん満ちている、そんなところであるという情報あるいは記憶もそこに付随しているのかもしれない。

だから、霊魂というと、底無しの世界、限りのない世界、わけのわからない世界、恐怖を伴った世界、そういった想いがわきだしてくるのかもしれない。

たとえば、だれも知らない広大なジャングルにただ一人深夜はいっていくような感じ、一人だけで海の最深部に潜るような気分、たった一人で大宇宙を漂いさまようような気持ち、そんなイメージが霊魂や霊魂の世界にはついてまわっているのではないか。

霊魂なんてわけのわからないクラゲのようなもの、とらえどころがなくて大宇宙の永遠の迷子になってしまうような存在、そんな恐怖の不可思議な存在に、肉体を自分だと思っている自分がなるなんて認められない。

そういったところからくる大きな恐怖と違和感が、ほとんどの人に「霊魂の世界は恐ろしいので霊魂なんてあってたまるか」から始まって「霊魂なんてない」と言わせ、忘れようとさせるのではないか。

見たくもない、聞きたくもない、言いたくもない、つまり、見ざる、聞かざる、言わざる、の3ざる状態にするのではないか。

恐怖や不安やいやなものは忘れたい、表現は悪いが、臭い物に蓋をして、安心を得ようとするのではないか。

そういったメカニズムで、そういう方面を歪めて解釈し根拠のない断定をするのではないか。

自分の心を守るために。

ちょうど、ブラジルかどこかに、「先の大戦で日本は勝った」と主張し信じこんでいた(いる?)人たちがいた(いる?)ように。

その人たちが「日本は負けた」と強く言い聞かされていたとしたら(強く言い聞かされたら)、自我が崩壊してしまっていたのではないか(自我が崩壊してしまうのではないか)。

そういう例えもできるのかもしれない。


結局そのことは、死ぬのが恐い、ということにもつながる。

霊魂とその世界。

そこは未知であり、広大すぎて寂しくて恐ろしくて、何があるのか検討もつかず、いつどこから何がでてくるかわからなくて、どこにいっても知らないものばかりで、なににも頼れない、そんな世界に死とともに霊魂は旅立っていく。

それが「死だ」と。

だから、「恐ろしすぎる」と。

だから、「霊魂なんてあってほしくない」と。

だから、「霊魂はない」と。

そういう流れで、否定するのではないか。

それも先ほどの話しの展開につけ加えるべきだろう。


しかし、よく考えてみると、霊魂がなくて、死んだら自分に関わるすべてが消え去ってしまう、その方がよほど恐ろしいのであるが。

しかし、それでもなお、それよりも前の方が恐いと。

そういうことなのかもしれない。


とまあ、考えてみました。

考えてみただけです。

私の研究姿勢は、先に述べたように考えられることをすべて挙げることですから。



ここでよく考えてみると、
意識の性質は霊魂の性質とまったく同じである、ということに気づく。

脳の中をいくら探しても意識はみつからない。

もちろん、からだの中にもさがしだせない。

先に述べた「もちろん、目に見えず、手で触れず、においもしないし、味もしないし、どこにあるかわからないし、どこをさがしても見つからないし、仮りに霊魂がそういった存在なら、ない、といいたくなる気持ちはわかる。」と同じ性質を意識はもっている。

おまけに、意識にも霊魂にも、意識がある、そういった存在である。

まったく同じではないか。


「ここの論理はいったいどういう構造をしているのだろうか」


たぶん、脳の中にもからだにも、意識がないと検証・確認できたら(物質の組織やその活動の中に)、こうなるしかないのだろう。

意識=霊魂である、と。

正確には、意識は霊魂に生じる、と。


私は、そういった方向ででも、科学的な追求をしてきているのであるが、かなり進展してきている。



以上、霊魂はある、と断定はしないけれど、仮りに霊魂があるとしたら、という立場に立って考えてみました。

普通、霊魂なんてない、という立場が一般的なので、霊魂があるとしたら、という立場で考えてみることも必要でしょう。




☆☆☆




ここからは、霊魂を離れて考えていきます。



さて、次はもっと理屈っぽくいってみましょうか。


「意識」の性質について考えてみる。

「意識」は、一体性・全体性を形づくっている。

一体性・全体性というのは、ひとまとまりになっている、ということであって、たとえば考えが完成している、という意味ではない。

その、考え、でたとえると、考えている途中であっても、考えがまとまっていなくても、考え始めた段階であっても、考えのひとコマになっている、そのひとコマというまとまりのことをいう。

パソコンでたとえると、意識はモニタにたとえることができる。

そのたとえでは、そのモニタに映し出される映像は、意識内容となる。

厳密にいえば、もう少し詳しくなるのだけれど、ここではそれは省略する。

まず、モニタ画面は一体性・全体性をもっているといえる。

さらにたとえば、アニメは、ひとコマひとコマ時間を少しずらして映し出されていく(パラパラ漫画でいうと、ひとコマひとコマがパラパラ見えるように)のであるが、そのひとコマも一体性・全体性をもっている。

「意識」は、一体性・全体性を形づくっている、というのは、そういう意味である。


で、脳の中で








「心脳の工学的構造」という論も押し進めているのだが、その論も、抽象的に大筋は立ち上がった。

そういった論の中で、
「蛇足:
予想;そうやって心脳の構造を追求していくと、今までのモデル・概念だけでは心脳の工学的構造が完全には解明できないことがわかっていくだろう。
そして、電子よりもっと波動性の高い何かを想定しないと解明できないことがわかるだろう。
たとえば、ノーベル賞学者・南部陽一郎氏の「ひも理論(弦理論)」や、そこから発展してきた「超ひも理論(超弦理論)」なども、そういった方向性をももっているので、その予想は戯言とはいえないのではないか。
もちろん、この蛇足予想は、予想であって、その論の構成はまだまだであり、検証はなされていません。」
という付け加えをしているのであるが、
そこも含めて、研究は進んでいるのです。

しかも、具体にもかなり突っ込んでいる状況にあります。


そういった方面に用いる検証のための装置の実現については、「夢の夢の夢」、と過去に記しているが(既存の半導体の特性をみて)、現在ある部品や装置などで、可能かもしれない、という展開になってきている。

その部品の候補として、少なくとも7~8品目は挙げられる。

それが可能である原理は、周波数変換、というところにあると考えてみる。

たとえば、「脳波」も、周波数変換によって、大きく(極端に)周波数を減少させられている可能性がある、と考えてみる。

そういった経過です。











(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)



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